多くの専門家にご協力をいただいているアンケートの結果では、専門家の研究に新奇性を求める人は90%くらいですが、中高生の研究では30%くらいに低下しています。
頂いたご意見なども合わせて推測すると、おそらくこの違いは下記のお考えによるものと考えられます。
- 本人にとって新奇性があれば、本当の新奇性がなくても良い。
- 「研究」の経験が無い教員に、新奇性のある本物の「研究」は指導できない。
- 科学を楽しんでくれたら充分
これらのご意見について、私個人の考えを述べさせていただきます。
本人にとって新奇性があれば本当の新奇性がなくても良い。
このお考え自体は、私も本来は賛同したいところです。
模倣ではなく、しっかりと考えて自分で見つけてきたことには、「世界的に見て本当に新奇発見か?」というのは必要無い。
これは教育としての研究である限りは、100%正しいでしょう。
しかし現状の中学・高校生の研究発表会を見ていると、実は深刻なレベルの弊害があることを実感できます。
有名新聞社が主宰するような発表会でさえも、自分で思いついたにしては明らかに不自然な話をよく見かけます。
例えばかなり前の話ですが、「白黒写真をカラー写真に変換する技術」を開発した中学生が最優秀賞を受賞していました。
なんでもおじいちゃんの白黒写真を見ていて独自に思いついたそうですが・・・。
しかし検索するとその20年以上前にその技術を開発して商売している会社のHPが見つかりますし、その中学生の研究が始まる直前の時期に有名なテレビ番組でそれが紹介されています。
また着想の経緯も、非常に類似した形でその会社のHPに書かれています。
偶然の一致なのかもしれませんが、もし模倣であるならば、
アイデアではなく演技力
が素晴らしいという話になってしまいます。
私が指導している高校でも、以前は毎年のように「4つ葉のクローバーがどのようにできるか調べたい」という人が居ました。
どうやって研究するかを聞いてみると、「茎頂を傷つけてみて・・・」という話が出てきます。
私は昔に、植物系の高校生発表会で最優秀賞を受賞した研究(本当にこれがオリジナルかどうか判りませんが)で、そのような内容を知っています。
あきらかにそのネタを元にしていると推測されます。
もちろん「先行研究」を明示して、その上で工夫して研究する限りは立派な研究だと思います。
しかし、他人の研究を盗用して自分の発見のように発表するのは、明確な研究不正です。
研究者ではなく、「研究者の卵」なんだから良いじゃないか?
とおっしゃる方も居るでしょう。
しかし我々専門家は、演技力や表現力だけで科学を名乗るようなタイプの研究者に痛い目に遭わされたのではなかったでしょうか??
文科省が掲げるように中学・高校生の研究が「将来の理系人材のエリートを育てる」ためであるならば、創造性や着想力ではなく、演技力や表現力で勝ち抜いてきた人材がどのような未来をもたらすか想像できますか?
私にはSTAP細胞な未来が見えるように思います・・・・。
現状、ほとんどの中学・高校生の発表会において、新奇性をマジメに確認することは行われておりません。
結果が派手で、工夫や努力をアピールすれば受賞してしまうことも非常に多いです。
しかし古来から、「信賞必罰」を適当にした場合の結果は酷いものです。
少なくとも科学は、演技力や表現力を第一にすべきではない。
したがって私は、「中学・高校生の研究」に新奇性を求めるのは重要だと考えています。
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