「受験勉強とか学校の勉強は、その後の人生にまったく役に立たない」
という言葉をよく聞きますよね。これはその通りだと思います。その人にとっては・・・という残念な意味においてですが。
例えば数学で習う「方程式」ですが、そのままでは使う機会などほとんど無いでしょう。しかし「結果が出ているが、過程や要因が判らない」時に、「方程式」という概念は役立ちます。
私は京都大学の大学院に進学した時に、圧倒的な実力を持つ先輩達との実力差に絶望したことがあります。知識の差ではなく、発想力や思考力が段違いにレベルが高い。先輩の年齢に達した時に同じことができる気がまったくしませんでした・・・。しかしセミナーなどで先輩が鋭く的確な指摘をしている時に、その能力を盗めるかもしれないと感じました。なぜなら「同じセミナー」を聞いて、「指摘」という解答も明らかなので、「何に着目して何を考えたのか?」を理解できるように思えたからです。
「セミナーの内容」 X 「先輩の頭の中」
= 「鋭い指摘」
さすがに1回や2回の機会では自分に足りない要因が多すぎて無理でしたが、何度もセミナーをご一緒するうちに、ある程度は同じことができるようになってきました。まあこれは「連立方程式」ですね。私の場合は他にも微分や積分、確率や三角関数などの数学関連が研究や実社会での問題解決や現象理解、アイデアのヒントになっていますが、他は自分が使いこなせなかったのだと考えています。
大学の講義なども同じで、これは実社会で自分が戦うためのスタイルや実力・能力を確立したり磨いたりするためのヒントに過ぎません。もちろん講義ではなくバイトやサークル活動、友達と遊んでいる中でも可能なのですが、せっかく高いお金を払って特殊な環境に居るのだから、その期間でしか学べないことを主軸にして欲しいと思います。
そして・・・大学教員の方々は、それに見合うような意義のある講義をして欲しいですね。現状では「学生が就活書類に書こうと考えない程度」のレベルかもしれないですが、自分が人生を賭けて挑んできたことの評価と考えると、私ならば非常に屈辱だと感じます。医学以外の博士号は全てPh.D(哲学博士)ですが、これは非常に大切なことで、自分のマニアックな専門分野だけではなく、社会の幅広い立場の人々に影響を与えられるという意味だと私は解釈しています。そのような内容の濃い講義ができるように、
大学や文科省が授業時間数や雑務が少ないシステムを構築してくれることを願っています。
現状は・・・、大学も衰退を続ける予感しかしません(少子化という理由だけではなく)。
社会や世界というのは、美しくて驚きにも満ちていて面白いですが、その一方で残酷な生存競争の世界でもあります。そこで負け続けると、欲しいものを手に入れられないだけではなく、大切なものを守ることもできなくなります。そのような世界で信頼できるのは、肩書きや学歴ではなく、自分の実力や能力です。必死に足掻いて悩んで苦労して、自分の能力や能力を発揮できる環境を見つけて下さい。そして個人レベルの満足だけではなく、世界を変えて欲しい。そのような志を持って貪欲に成長を続けるような人材を育てて行きたいです。
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