それでは大学進学に何の意味があるのでしょうか?
個人的な感想になりますが、その後の人生で戦うための武器や能力を必死で獲得したり磨いたりする場所として、私は大学が大切だと考えています。
卒業した大学の評価は時代と共に変化し続けますし、大きな企業に就職したとしても、その企業は消滅するかもしれません。リストラされるかもしれません。そんな変化し続ける時代の中で、変化しないのは「実力や能力」だと思います。そして大学というのは、その機会を提供してくれる場所だと考えています。
自分の経験から、特に以下の4つが大学の重要性だと思います。
- 幅広い地域から人が集まる。
- 浪人生など、本来は異なる学年の人が身近になる。
- 中学・高校よりも時間に余裕があるので、カリキュラム以外のことができる。
- 研究などに人生を賭けている人達と接する機会がある。
まあ書いてみると、実は大学である必然性は全く無いのですが・・・。実際に中卒でも高卒でも、学歴に関係無く凄い人は居ますよね。
1と2 地域や学年の異なる人が集まる
小学校から中・高校までは、その地域の人が集まっている場合が大部分かと思います。転校すれば新たな地域の人と接することができますが、「色々な地域」という訳では無いですね。学年の壁は、私のような部活をやっていなかった人間には分厚いですし、やっぱり先輩や後輩である以上は距離が出来てしまいますので、「同学年」になるのは意味があると思います。
また「浪人」というハードな経験をした人達は、苦労しただけのものを持っている人が多い印象はあります。もちろん留学とか多国籍の学校の方が多様性は大きいですが、深く理解し合えなければ意味はありません。最初からハードルを高くし過ぎて、挫折したり嫌気がさしてしまっては逆効果だからです。手始めとして、文化的背景が理解できる範囲で(とは言っても意外に驚くことが多い)多様性に触れるのは重要だと思います。異なる文化や習慣・経験・考え方を持つ人達は、アイデアや創造性を身につけるための良いヒントです。
3 大学生は比較的時間に余裕がある・・・
はずだったのですが、私の頃よりもカリキュラムが増やされているように思います。さらに生活苦でバイトなどに追われている状況では、こんなことを言うと怒られそうですが・・・。
「私の場合は」ですが、空いた時間に自分が興味を持ったり気になったことを、心ゆくまで調べて考えたりしていました。テストのための勉強はイヤになりますが、テストされないことを調べて考えるのは楽しいです。趣味で勉強したり考えるという習慣は、アイデアを産み出す下地になっていますし、他人を理解したり説得・納得させる能力につながっています。
徹底的に調べて考えて悩んで、自分で何かを発見したりアイデアが浮かぶ経験を是非とも味わって下さい。
大学の講義内容が文科省などによって定められたものでは無く、教員の自由であるのも、これと関連しているように思います。何かに興味を持ったり、気になったりするのは、新しい経験や知識が端緒ですよね? 大学の講義である必然性は無いのですが、教員が専門的に取り組んでいる世界に触れるのは、興味が刺激されるかもしれません。
4. 人生を賭けて何かに挑んでいる人達
大学教員の全員とは思えないのですが、やっぱり世界の最先端で戦っている人達が各大学・各学科に居ることが多いです。研究室などで、そういう人達と接して理解する機会は、人生の大きなヒントになるかもしれません。その人の挑んでいることが自分にとっては重要でなくても、才能のある人達がしのぎを削って研ぎ澄ませてきた考え方や知識・技能などは、核心を理解できれば全ての分野で通用するはずですし、私も異分野・異業種の人達から得た物が能力の根幹となっています。
あくまでサークルや部活をやっていなかった人間の観点ですが、特に3と4は大学の存在意義として重要だと考えています。そして・・・、危機に瀕している部分でもあります。
3に関しては、大学の授業数が膨大な数になっているようです。色々なことを考える余裕がある環境というのは重要だと思うのですが・・・。授業時間数が重視されているようですが、講義は量よりも質です。教授の裁量で必要な時間数を判断して、その講義の効果や重要性に関しては、学生の満足度とかを基準に評価される仕組みを作れば良いと思います。
4に関しては、大学教員が減らされ続けている一方で業務が増え続けており、自分の専門分野に集中する時間が満足に確保できていません。教員が自分の専門を極めたり深めたりする時間が無ければ、教えられる内容も薄っぺらいものになります。短い時間で良いから、本当に大切だと思える内容を話せるようにした方が双方に有益でしょう。もちろん聴く価値のある話ができる人を選ぶ仕組みも重要ですが・・・、そんな基準で教員を採用しているところってあるのですかね??
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