朝日新聞に痛ましい記事が掲載されていました。
文系の博士号を取得した女性の絶望と死に関するものです。
同じように博士号を取得して、そして大学や研究所の教員に成れなかった人間としては、「他人事ではない」というよりも「明日は我が身」な話です。
氷山の一角という言葉がありますが、せいぜい90%位しか水中に沈んでいない氷山どころではないレベルで、似たような話が埋もれている気がします。
私の場合、大学院の博士課程に進学を決めた当時の状況は、既に博士課程取得者の未来が相当に危ないことが明白でした。
おそらくこの女性もだと思いますが、研究して未知の世界を切り拓くという魅力は、そのリスクに見合うと考えた上で私は進学しました。
自己責任論という言葉がありますが、少なくとも私に関しては、全てを承知の上で進みましたし、今更インチキだとか詐欺だとか言うつもりはありません(あくまで私についての話で、他の人は判りません)。
後悔はしていないですし、今になって過去を選び直せるとしても、やっぱり研究の道を選ぶでしょう。
成功も失敗も挫折も苦労も成長も、全て私のものであって、他人に勝手に責任を負われるのは不愉快でさえあります 。
それほどの価値が私にはありました。
一方で行政や研究業界自体に何の落ち度も無いとは全く思いません。
両方とも学歴や頭脳がウリの業種のハズですが、情けないほどに戦略やアイデアが欠如していたのも事実かと思います(私自身も含めて)。
今のような誰も得しない惨状を避けるシナリオはあったでしょう。
現在や過去は変えられませんが、未来を変えるための戦略を考えていきたいと思います。
記事のコメント欄を見ていると、「文系や基礎研究のすぐに役立たないものに国がお金を出さないのが問題」という趣旨の記載が散見されます。
ありがたいですし、ノーベル賞学者達が十年以上も主張して下さっていることが、少しは広まってきたのかもしれません。
しかし行政側の「公的研究費は税金である以上、研究者の趣味みたいな役に立たないモノにお金は出せない」という言い分も理があるのです。
研究以外の職種で苦労されている人達としても、「なんで研究者だけを優遇しなければならない?」と考えるでしょう。
ここで重要なのが、
基礎研究や文系の学問に有用性があるのか?
ということだと私は考えます。
私は当然ながら「ある」と考える人間ですが、それはよく知っているからですよね。
他の職業や専門の人々に、「何も言わずとも伝わる」と考えるのは無理があります。
コメント